言葉を求める話をします

最近このブログの記事を文学部卒っぽい、浮世離れしていると言われて少し驚いた。浮世離れ。なるほど、なるほど。他の人はなにを思って生きているのだろうか。


いい国語辞典を探している。
ブログを書いているのも俳句を詠んでいるのも自分の脳内、風景を言葉で表現したいという気持ちからなのだけど、語彙の少なさから上手くいかないことが多々あるのだ。
身表の落下、うすがけの心地よさ、風が身体を通過するときの空洞さ。僅かな焦燥と諦念。

友達との会話で、たまに全く悪い意味ではなく理解できない感情の話をされる時がある。自分にないから受け止められない、照射されないもの。そうした時に感じるのは、自分の感情のバリエーションのなさ、解像度の低さ、反対に相手の感性の高さをどうしたら手に入れられるだろうかということ。繊細さを手にしたいということ。本質と位置が異なるものに意味を感じられるようになりたいということ。

少しずれるが、去る者と残る者に分類するとして。きっと自分は中途半端に前者に該当するという予感がある。
自身にある、流れ去る側の美学とは別に、残る者の美しさに惹かれる。
残る人の目にはきっと自分に見えない大事なものが見えていて、その人との踏み込んだ思い出があって、それを大事に抱えて、掠れてぼやけるくらい繰り返していくのだ。

たとえばそうした感性を手にしたいとして、自分はおそらく手にする取っ掛かりとしての言葉も求めている。
自分に素地がない時の、アウトプットだけでなく、インプットのためとしての言葉という観点。
別にその人の感性に共感して喜びたいわけではなく、自分に備えたい訳なので、言葉によるインプットくらいがちょうどいいのではないか。
いくら本を読んでも人の気持ちはわからなかった、という文章に感性が動いてしまうから、同じ結論に辿り着く可能性はあるけれど。
ゲームはよいがゲームをやる前に実体験をさせた方がよい、という話を思い出しつつ、実体験から得られないのであればすがらせてほしいと思いつつ。

どうやら自分は言葉に対してなかなかな重さの信頼を置いているようで、その理由も知っておきたい。
あとで直すかもしれない。こんなに自分のことしか書いてないのによく読んでくれますね、総閲覧数700回弱!なんで!?ありがとうございます!

今年の抱負の話をします

想定外の異動で2年足らずの山梨生活は終わりを迎え、金沢に異動、雪。
こちらの雪はふわふわして綿菓子のようで、髪の毛におちてもすぐには溶けず美しい。
コートで来たから雪が服に密着して、少し外に身を置くと全身がほのかに白に染まる。

こんなに軽いのに積もるとそこそこの重さになるようで、駅ビルは営業時間を短縮、行こうとしていた不動産屋は予約できず。
3週間ほどのホテル生活となりそうだ。


場所と自分との関係について、場所はある程度自分を固定する・決定する、または気分づけるものであると感じていて、全国を転々とするその度に、原風景たるものがより強固なものとなる体感がある。
これについてはまた後日まとめるとして。


自分と他者の関係について。
行く先々で、飄々としている、どこでも生きていける、動じないと評価を受ける。
自分でもとても理解できるけれども、どうも他者のために何かをする人物には見えないらしい。

そんな中でも印象に残っているのが2つ、
個人主義に見えて貢献する気持ちが強い
・淡々に見えて熱々


正確に言うのであれば貢献したいという性格の良さから来るものではなく、

やらないよりやる方がよいという判断をしている
相手に何かしたいという自己満足、エゴがある

ということなのだと思う。

2つ目について、大学で告白とは一種の権力の行使であると学んだことを思い出す。
告白、あるいは謝罪は、相手に受容や赦しを要請するものであるということ。
相手に好意を伝えること、自分が相手に何かしたいという欲を見せること、また何かをすることは、相手に許容されるだろう、相手もそれを受け止めるだけの同じ重さの想いを抱いているだろうという甘えを含んでいる。
甘えという響きが悪ければ信頼という言葉に置き換えてもよいのだけど、どちらにせよある程度の関係が構築されきっていることを前提として成立するものである、と感じている。

そうした上で起こされる行動は、きっと熱量や大きなエネルギーを伴うのだと思う。そんな前提を考えなくても、人の気持ちが一番強いなんてことはわかっている。
仮に自分も許容されるとして、その行動に果たしてどれだけ熱量を乗せられるだろうか。

そもそも本当に強い気持ちがあるかも曖昧な中で、それでも人に好意を抱くことはあって、それこそ家族や友人はそれに該当するけれど、その気持ちに見合う態度を持ち合わせているだろうか。

いつだったか、人間や集団に直接関わることは嫌いだけど人間のことは好きだという研究者の話を読んだことがある。
おそらくそれに近しいものはあって、好きだという気持ちに相応しい態度が見当たらないのだ。

余白が美になり奥行きになり深みを生み出すのは理解していて、それでも余白のつくり方がわからず直線で進んで伝えて、結果として振り落とされているものが道に多々落ちている感覚がある。必要最低限かと言われたら肯定できないニュアンスのもの。


きっと私的、あるいは詩的な面のものなのだろうけど、それを大事に取り上げることを今まであまりしてこず、頭の動き方が合理的な方向にシステム化されているように思う。
そこから脱却するために、今は手続きを経て自分のムードをそちらに持っていっているけど、本当は合理的な自分とその前の段階である自分の境界はない方がよいのだろう。

言葉のレベルで言うと、日常的に使用している語彙と詩的言語的な語彙が同じスペースに入っている、もしくは交互に転用できることが自分にとって望ましいのだろう。加筆修正、という言葉でイメージが喚起され広がりを生むかという問題。

ということで、今年の抱負は 日常でもゾーンに入れるようにする です。

俳句などをまとめる

直線の理性を緩めしゃぼん玉
どうしても雨に頼るか虹の性

卒業のしるしを捨てて勝ち越して

水色と黄色と青の夏を過ぎ

待ちわびて広瀬香美iPod

米を研ぐ指に見惚れて僕と咳
オリオンを背にうけ鳴らせファンファーレ
氷から現る水の最適解

凍解を待って待ってよ落日の今
白皙の熱雪崩れて青明ける夜
確固たるライトなくして身も朧

硬質の月からはかる横の茫洋
流星の軌道を辿ってきみはなに

アクリルを踏んで踏めない薄氷

ひかりゆく背に透け掠れてライラック

曖昧な罪にとどまる夏の日にあなたはなにを想っていますか

春雷と風あせる恋にギロチン
追憶の中に離れる手とミモザ

陰りゆく夏の庭ときみへの祈り

信号のきらきらと薄暑を歩く
TSUTAYAまで迫る少しの緊張と振り返るきみスローモーション

張りぼての星河に埋もれる六拍子

きみの爪を染める葡萄に嫉妬して
冷ややかな身体を眺め午前2時 風を通して空中浮遊

橙の円環 眩むリフレクション
静謐な月から君へ垂直落下

前で瞬くプリズムではあまりに軽々しくてミルクを混ぜた

いたずらに景色を変える遊覧船、伏し目 航跡に僕を見つけた
凍月に関与したくて投げる熱

流氷を漕ぎ出し光れその彼方
春を待つきみは前ばかり見ていて目を閉じ流すエンドロール

窓越しの反射を潜る午後3時
夏至に吸い込む息 古本市とスロウ

暖色の霞隔てて今、わたし
かれの片手には風船足に鉄
春の夢駅で乗り継ぎ次の街

消費する生活に興味なんてなく夏めく空をベッドから見る

息をする連綿とした地に君の風を纏ってきえたすいせい
無重力身体で抱くペーパームーン

水あかを掃除すると、生きていた痕跡を消している気分になる

儚さ、そこにいたものが次の瞬間にいるとは限らないこと、吹き抜ける風。
そこに確かに身を置いていたのに、振り返るとはらはら消え去っていく自分
蓄積されにくい質量の軽さ。

武者小路実篤ヒプノシスマイクのStellaも、遥か遠くの希望を目指す・希求することの微弱な強さ
未来に自分を据えて現在の自分たちを肯定することの脆さ

他者を大事にしきれない空虚
繋ぎとめられなさ、ドライさ、熱のなさ
覚えている側と忘れる側がいるとすると、明らかに忘れる側に含まれる自分
あなたが忘れても私は覚えていること、忘れないでねということ。
水色とピンクの煙

静物が好きだという話をします

あっ今静物になれそう、と思ったことがある。

一人暮らしをしている。
休日風が吹くと、あぁこの部屋には自分ひとりしかいないのだ、と思わされる。
動かない自分、動かない家具、入り込む風、揺らされるカーテン、室内の空気を連れる風。
髪や服がカーテンと同じタイミングで揺れる時、肌が風に撫でられる時、「あっ今静物になれそう」のタイミングが現れる。
中原中也に感じる自己俯瞰的な目線、自分がモノである、自分の身体が殻であるということを自覚する瞬間。

静物」という響きが中学生の頃から好きだ。
それ以上でも以下でもない潔さ、モノがモノとして凛として在ることの美しさ。
それと同時に、絵画の中で人間がある種特権的な位置にあることが不思議だった。

人間と静物の違いとは。
動くことだろうか、生きていることだろうか、それとも自分がそれに所属していることだろうか。心があることだろうか。


人間それぞれの中身に重さがあったとして。
私はきっととても軽く、あるいは滑りやすく、だからこそ自分から漏れて静物になれそうな感覚になるのだと思う。
空気の軽さではなく、粘度の高い水のような、摩擦が少ないが故の軽さと滑りやすさ。

きっと心があれば、重心をそこに下ろすものがあれば滑らずに済むんだろうと思いつつ、そんなものは見つからず、それでも日々は過ぎてゆき、でも身体はそこにあるからなんとなくそこに戻って。


物事は通過して通過して、滞留せずに流れて、私も流れて、あとに何が残るのだろうかとふと思う。
それを悲しいと感じるわけでもなく、あくまでもフラットに。
自分はインプットしたものを内面化すること、自身を変容させることに欠けているなとちょこちょこ思っているのだけど、それも私自身の内部に理由があるのだろうなぁ。

宝物ができにくいという話をします

私はいつもひとつ上から今を、そして今からひとつ上を振り返ったときに気づく。

たとえばチョコ。
私はチロルチョコを割と美味しく食べられるリーズナブルな舌なのだけど、サロンデュショコラで手に入れたチョコのあとに食べるとさすがに美味しさはなくなってゆく。

また別の話として。
大学時代に学芸員資格を取ったのだけど、そのための講義で先生が「皆さんにも大切にしている宝物はあると思いますが…」と言っていた。
周りの学生は頷いていたけど、私には特になかった。
ここまでハッキリと自分と他人全員との差異を感じたのは初めてで驚いたのと同時に、(他人と違うことにではなく)宝物がないという自分に、本当に心底ショックを受けたのだけど、これも上と同じことなのだろう。


音にも絶対音感相対音感があるけれど、全体的な私の性質を当てはめるならきっと後者なのだと思う。
絶対的なものが内在しないから、外に基準を求めるしかないのだ。

ただ、音階などの基準が決まっているものを除いて、そこではその基準をどう定めるかという問題が発生する。
例えば他者による絶対的なモデルに従うとき、それは隷属の可能性を孕んでしまう。
私は若干ひねくれている部分があるので、そこに自分をすべて委ねる楽さはあるだろうけど、果たしてそれで本当にいいのか、いやよくないだろう…と考えてしまう。

そうなったとき、基準はやはり外部にあるものから自分が選択する/内在する不確かなものになり、あるいは基準不在のまま、曖昧にぼかされていく。
そうした基準のもとで手元に来たものは、絶対に大事か、と聞かれたら自信をもってそうとは言い切れなくなる。

ただそんな自分の選択や大事にしているものに自信がないわけではなく、むしろ何となく大事なのは間違いないのである。

そう考えると、「何となく」に自信をもって浮遊し続ける、揺蕩い続けることがこの生き方の極致となるのだろうか。


アイデンティティのことを考えると、基準が自分で見えずそのために自己は広がりを見せてゆく。
自分で認識するには、その総体を捉えるしか方法がなさそうだ。

夜が好きだという話をします

前回の記事、絶対受け悪いよなぁと思いつつ公開した割にちょこちょこ反応くださって嬉しいです。


オリオン座を探すのが癖になっている。

最寄り駅から実家までの道が好きだった。
帰宅ラッシュを過ぎると人は減り、いても自分とあと2人。
およそ20分、程よい街灯に程よい静けさ。
高い建物も少なく、なんとなく見上げるとオリオン座が見える。

月だって好きだけど、月は必ず見つかる安心感があるのに比べ、オリオン座は自分から探しにいく要素が大きいからか、そこには少しのワクワクがある。

見つけたからなんだ、ということはない。
宇宙から見たら私たちなんてちっぽけな…なんて言うつもりもないけど、それでもオリオン座を探すことで自分を再度地に着かせるような、相対的な捉え方をしているのかもしれない。

高校のとき照明をやって得た大きなもののひとつは、目に入るものは光の反射によって認識されるのだ、という理科で学んだ内容を、身をもって体感できたことだと思う。

それはつまり、光を当てないことでそのものの存在を消すことができるということであると同時に、ものに反射した光が目に入った瞬間に否応なくものの存在が現れるということでもある。

昼、日光が満遍なく降り注ぐシチュエーションはまさにこれで、どうしたってある程度は光が目に飛び込んできてしまうのだ。

自分には視覚偏重のきらいがあるのでそのまま光をものと受け取ってしまいがちなのだけど、果たしてそれは本当にものを認識しているのか、と感じるときはある。
むしろ夜、光に晒されない密やかな世界の方が、そのもの自体に触れられるのではないか。そこまでいかずとも、光によって与えられた情報以外の別の顔を覗かせているのではないか。

夜のイメージとしては、固有物たちの軽やかな沈殿。
天と地が分かたれ、地にいる私の、オリオン座との隔絶と共犯。
沈黙を守る街の中でひとり、歩く自分の遊泳感。
自分が見るもの、認識しようとするものを集中力をもって認識する、静謐な感覚。

安全地帯を確保しているからこその感覚なのかもしれないけど、こうした夜の環境は心地よく、何にも代えがたいと思う。

この感覚はサカナクションのどこかのレイヤーに存在すると思っているので、ちゃんと書けるときがきたら書きたいなぁ。