時間とテンポの話をします

前回の記事、なんと78回も閲覧されているようで!びっくり!ありがたい!
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「時間は全ての人に平等に与えられる」という誰かの話を覚えている。
確か高校3年、受験生の頃で、その話はだから毎日無駄にせず勉強しましょう、という着地だった。
当時は軽く聞き流していたけど、今になってそれはもう少し踏み込めるのではないか、と感じるようになった。

それは、テンポの問題である。
私は人にはそれぞれテンポがあり、話すスピードや動作に表れると思っている。
時間が(まず平等なわけではないけれども)平等だとしても、そのテンポが速い人は短く、遅い人は長く感じることになる。

ただし、そのテンポは必ずしも絶対的なものではなく、音楽のBPM、他者の身体のテンポなど、様々な外部要因によって揺らぎが生じる。

少し広く見て、街や場所にはそこ特有のテンポがある、と思う。
例えば渋谷のスクランブル交差点とか横浜駅の構内とか、反対に平日の公園とか。

何をもってそのテンポが決められるのかというと、それは人に先立つものであるように感じる。人が生活する中で生まれた、人が生活するのに適したテンポ。
ただ、すべての人に適しているかというと勿論そうではなく、そこから漏れる人も存在していて、そんな人は決められた「普通の」テンポに自分を合わせるという逆説的な事象が起こる。

こんなことを考えるようになったのは、如月小春の舞台、ダムタイプ展、ソール・ライター展のタイミングが近かったからなのだと思う。

如月小春からは言わずもがな消費や欲望を、また「普通の」テンポに合わせる人を、ダムタイプ展からはデジタルと身体によるズレを感じた。

それに続くソール展で感じたのは、社会のテンポからの逸脱である。
ソールの生きた社会や街にもテンポがあり、それは写真の中でも進んでいる。しかし、ソール自身はそのテンポから離れ、傍観し、そして自身のテンポから街のテンポの一部を切り取っている。
写真を撮るために傍観者になったのか、傍観者だからそういった写真を撮れたのかはわからないけれど、そこにあるものを捉えるためには一度当事者から外れる必要はあるよなぁ、と思う。

私は割と自分のテンポがない、あるいは変動しやすい人間だと思っていて、だから自分のテンポをしっかり持つ人に会うとどうしたら保てるのだろうかと不思議に感じる。
自分自身に軸やこだわりがあるからなのか、世界を意識していないからなのか、もしくは世界を意識しきっているからなのか。

世界には世界のテンポがあり、そこに自分を合わせるのである…という話を聞き齧ったこともあるし、世界と人間のどちらのテンポが先行しているのかわからないけど。
考えなしに直感で言うと、人間のテンポ先行の方が楽しそうだななんて思ってしまう。いやでもぽっと出の人間にはやっぱり難しいのか…。

情緒的な文章を書けるようになりたいのだけど、その前に大きな感情の揺れがないからなぁ…と少し虚しい気持ちになっている。
次回こそ、情緒的なテーマで、情緒的な文章で。

水が好きだという話をします

水が好きだ。
お風呂には1時間半は入るし、雨の日はワクワクする。プール後の髪も乾いてほしくなかった。

なにがいいかって、まずは透明なのがいい。
透明には確実に奥行きがあるのだ。
澄みきって突き当たりを見つけられないのもいいし、反対に突き当たりの色を鋭くぼかして発見できるのもいい。清少納言みたいになってるな。

清少納言ついでに書くと、無音なのもいい。
水中を泳ぐと、自分という直線が水を刺し割るスーっという音が聞こえるのだ。
スイミングスクールに通っていた頃、一番の楽しみはそれだった。タイムを求められるスクールでは息があがるのだけど、その息の音がスーっという音をかき消してしまうのが少し惜しいなと思っていた。

耳は空気中では開示し開示されているけど、水はむしろ閉塞に貢献する。
水族館に行くとイルカの水槽の前に座る。ここでも空気中と水中は分かたれて、イルカが泳いだことによって生まれる波の音でイルカの存在を、水中の存在を知る。私はこの、開放された場所で閉塞された世界の存在の一部を感じるときが好きだ。多くに開放されている世界にあって、在って閉塞を感じるためには、開放側にその準備がなければならない。さらには広い開放にいる小さな私というスケールの差があり、施された準備とこの差によってかえって私ひとりの輪郭が明確になる。そのように、開放の中にある自分という個人を認識し、その上でイルカの波の音を開放から拾い上げることで、自分とイルカ、水中と対峙することができるようになる。この対峙によって、イルカ、水中から自分が反射して戻される。
水族館でイルカの水槽の前に座ることは、自分を再認識する行いでもあるのかもしれない。

プールに戻ると、川で洗礼を受けるように、御手水で手を清めるように、水に入ることで自分が綺麗なものになれる幻想に潜れるのだ。

思えば清くなりたい願望、翻って自分が清くないという感覚は何故か昔からある。
自分と同じものなのに友達が使っているペンがとてもいいものに思えたり。
考えてみるとそれはペンそのものではなく、その友達がペンを使っている光景全体の美しさの理由をペンという構成要素の一部に求めたことによる間違いなのだろう。

光景の美しさについて、私はなかなか可愛いげのない子供で、壁の色がパステルの可憐な家を見て「あんな家住んだら楽しいだろうね」と言った母に「でも住む人が家に似合う人じゃなかったらがっかりするよね」と言った記憶がある。

私の中で(一般的な綺麗でなく主観的な)綺麗な光景と自分は切り離されていて、だからアイドルや舞台に惹かれるのかもしれない。次元や枠によって客との距離が明らかに存在しているから。綺麗な光景に自分が介入して邪魔をしないから。

こう書くと自分を悲観的に捉えているように感じられてしまうかもしれないけど、身の丈を知っているという感覚の方が近い。
ミスチルに不器用な自分は嫌いだけど器用に振る舞う自分はもっと嫌い、という歌詞があるけど、不器用な自分からすると器用に見せかけられるだけでも羨ましい、と思ったことを覚えている。

のだけど、最近飄々としているという評価を受けることが多くなってきていて、それはそれでとても光栄なのだけど、だんだん自分で自分の輪郭が掴めなくなってきている。

こうしていくつか文章を書くことで、自分が底に透けたり炙り出されたり…しないかな…?という少しの期待を抱いて、とりあえず次更新することを目標にしておく。