好きなことと苦手なことの話をします

人差し指の内側に痛みが走る度、まるで現実の世界に引き留められるようで煩わしく思う。
友達にも指摘されたように自分のことを他人事と同じく事象として捉えることが多い中、痛みだとか刺激は自分を自分事として認識するように求めてきている気がして。

以前手のひらの皮が捲れてなかなかの流血沙汰になった時も、「神経に直接触れられるような痛み」とはこういうことを言うのか…と真っ先に考えたなと思い出す。

そういえば、数学や理科の「…は考えないものとする」という条件が好きだった。
アクシデントは考慮しない、原則を発見しようとする潔さ。
机上で考えた策が実際の現場には全く合わずに失敗したケースなんて何回も見てきたけど、実益だとか人間の活動とかそうしたこととは一枚隔てた無機的な部分で、齟齬や矛盾がないことへの爽快感とでも言うのか。

きっと重視するポイントの話で、アクシデントなどの要素は些末なノイズである、改善すればそれは収束すると考えているから、条件付けと気が合ったのだと思う。

私はイルカがそれはそれは好きで、直近で一日に二回水族館に行くくらいなのだけど、好きな理由はそこにもある。
あんなに無駄なく美しく泳げたらという欲の伴わない羨望、流線型の身体が泳ぐためだけに正確に優雅に動くことへの憧憬。スイミングスクールでバタ足を教わった時は水面から足が出て飛沫が上がらないように泳いだし、ドルフィンキックを教わった時はずっとこれをやっていたいと思っていた。

イルカや水族館が好きなのは、水が沢山あるからでもあると思う。
水分は生きてるみであり、その生きてるみを外から見てとれるから。瞳や唇がウルッとしていることに惹かれるのもこれである、と勝手に説を立てている。

反対に苦手なこととして、トーナメント戦がある。
苦手というよりは、完全でないという感覚があるという方がおそらく近いのだけど。
オリンピックなんかでも、4位が3位と僅差だともうどちらも銅メダルでよくない…?という気持ちになる。
どこまでを表彰するかは「決め」の問題であって、区切られているからこそ参加者もそこに立つことに意味を感じるのだろうとは思いつつも、環境や状況によってはその人が3位になるポテンシャルはあったのだと考えてしまう。ナンバーワンよりオンリーワンという話ではなく、ナンバーワンは果たしてナンバーワンと呼べるかという疑問。
あんなに練習したのに本番は一回しかないんだ…という幼い頃に感じた理不尽さもこれに繋がる。
この考え方が頭を占めている時点でその勝負の醍醐味は味わえないので、一つ体験を失っていることが無念。

価値あるものは正当に評価されてほしい、というのは不思議と私の中に強くある想いである。ただし価値観なんて人それぞれなので当然「私にとって」という括弧がつく訳なのだけれども。

前にも書いた記憶があるが、大学時代の先生の言葉を借りると自分のことを天皇制よりは革命型であると感じていて、今の自分に対してもそこまで大きな信用を置いていないため、価値あると見なすものもこれから変化していくのだろうと思いながら。

言葉で説明をするとわかりやすくはなるのだけど、その分量は減り色味は失われるなと、更にそれによって自分の内部も簡素になっていくなと感じる。
自分のなかに、事実と判断の他に感覚部門も創設するべきだなぁ。