言葉を求める話をしますの部分的アンサーなど

水あかを掃除すると、生きていた痕跡を消している気分になる。

汚さはどこから味に転じるのだろうか、清潔~不潔~年代のグラデーション。エロ・グロ・ナンセンス、図形の反転。
自分の性質を考えてみると、年代のフェーズまでは到達し得ないように思う。突き詰めるのならば、清潔に寄せていく方が近道だろうか。


性質について、夜を越えるとか乗りこなすとか蹴って進むとか、そういった能動性は似合わないように感じる。流れ流れの方があっているというか。
後で振り返って見つけられたものがその時に取った行動の結果であるという、長期的な未来を予測しない姿勢。
血縁による権力の連綿と革命のシステムの二択にするとおそらく自分は後者で、将来の自分、あるいは未来は現在の延長であるということに確固たる信頼を置いていないのだ。

自分が今まで経験してきたこと、インプットしてきたことが今に繋がっていないと感じるのも、この時間の連続性への認識の低さに関係しているように思う。
ある時点で区切られた自分自身が自分という枠に収められているだけというか、ぶつ切りにされた経験がそれぞれに配置されているというか、積み木を横に並べているような。
因果関係があることは頭では理解しているのだけれども。


さて、以前から自分は感情薄めなのでは…と思っていたが、最近になって単純に鈍くて気づかないということではないかという可能性にあたっている。
好きなものが見つからないという問題…というかニュアンスとしては命題に近いけれども、これもここに起因しているのであれば解決のしようがある。
おそらく現時点では理性、思考で覆われているものを、自分の力でどう外していくか。また、外した後に現れたものに落胆しないか。
感情の側近にあるものとして、本質がないことが本質である可能性も保留にして。

感情があるにせよないにせよ、人の気持ちを真に理解できていない現状に変わりはないのである。
自分がつくる俳句も感情は乗らない、というよりそもそも範疇に入っておらず、自分が描きたい情景を描写し、いるのならば自分を含めた受け取り手に感情面を委ねる。
人に言葉をかけるとき、上滑りしているなと自覚することもある。自分から出た言葉ではないあの感じ。


前回は言葉を求める話として、感情のインプットとしての言葉を探していると書いた。そもそも言葉、文字をここまで信頼しているのには、ここに1つ理由があるのではないか。

言葉は文字におとした瞬間に揺るぎなく文字に与えられた意味を表すから。感情や態度という、言葉と意味の間にある純粋な結合へのノイズが排除されるから。
もちろん発信者と受信者間での齟齬、解釈の違いは生まれるだろうから(語用論・現代文学批評理論)、あくまでも自分が発信するときにどれだけ緻密に発信できるかという話に限定して。

こうするとどんどん人間の関係性から外れていくのだけれど。80-90年代、演劇における言葉と身体の関係性の試行。卒論資料を読み返したいな。


自分は他者のテンポにあわせがちであると書いたが、複数の人から自分の世界を持っている、マイペースであるとの評価を受ける。自分で把握している他者に相対している自分と他者にとっての自分にはズレがあるのか。

自分と親しい人、頼むからボランティアだと思って私への評価を教えてほしい。あんまりこれ読んでる人いないと思うけど、そこまで親しくなくても。どういう性質なのか、長所短所など。LINEでもTwitterでも電話でもなんでもいいのでご協力お願いします!