言葉を求める話をします

最近このブログの記事を文学部卒っぽい、浮世離れしていると言われて少し驚いた。浮世離れ。なるほど、なるほど。他の人はなにを思って生きているのだろうか。


いい国語辞典を探している。
ブログを書いているのも俳句を詠んでいるのも自分の脳内、風景を言葉で表現したいという気持ちからなのだけど、語彙の少なさから上手くいかないことが多々あるのだ。
身表の落下、うすがけの心地よさ、風が身体を通過するときの空洞さ。僅かな焦燥と諦念。

友達との会話で、たまに全く悪い意味ではなく理解できない感情の話をされる時がある。自分にないから受け止められない、照射されないもの。そうした時に感じるのは、自分の感情のバリエーションのなさ、解像度の低さ、反対に相手の感性の高さをどうしたら手に入れられるだろうかということ。繊細さを手にしたいということ。本質と位置が異なるものに意味を感じられるようになりたいということ。

少しずれるが、去る者と残る者に分類するとして。きっと自分は中途半端に前者に該当するという予感がある。
自身にある、流れ去る側の美学とは別に、残る者の美しさに惹かれる。
残る人の目にはきっと自分に見えない大事なものが見えていて、その人との踏み込んだ思い出があって、それを大事に抱えて、掠れてぼやけるくらい繰り返していくのだ。

たとえばそうした感性を手にしたいとして、自分はおそらく手にする取っ掛かりとしての言葉も求めている。
自分に素地がない時の、アウトプットだけでなく、インプットのためとしての言葉という観点。
別にその人の感性に共感して喜びたいわけではなく、自分に備えたい訳なので、言葉によるインプットくらいがちょうどいいのではないか。
いくら本を読んでも人の気持ちはわからなかった、という文章に感性が動いてしまうから、同じ結論に辿り着く可能性はあるけれど。
ゲームはよいがゲームをやる前に実体験をさせた方がよい、という話を思い出しつつ、実体験から得られないのであればすがらせてほしいと思いつつ。

どうやら自分は言葉に対してなかなかな重さの信頼を置いているようで、その理由も知っておきたい。
あとで直すかもしれない。こんなに自分のことしか書いてないのによく読んでくれますね、総閲覧数700回弱!なんで!?ありがとうございます!