今年の抱負の話をします

想定外の異動で2年足らずの山梨生活は終わりを迎え、金沢に異動、雪。
こちらの雪はふわふわして綿菓子のようで、髪の毛におちてもすぐには溶けず美しい。
コートで来たから雪が服に密着して、少し外に身を置くと全身がほのかに白に染まる。

こんなに軽いのに積もるとそこそこの重さになるようで、駅ビルは営業時間を短縮、行こうとしていた不動産屋は予約できず。
3週間ほどのホテル生活となりそうだ。


場所と自分との関係について、場所はある程度自分を固定する・決定する、または気分づけるものであると感じていて、全国を転々とするその度に、原風景たるものがより強固なものとなる体感がある。
これについてはまた後日まとめるとして。


自分と他者の関係について。
行く先々で、飄々としている、どこでも生きていける、動じないと評価を受ける。
自分でもとても理解できるけれども、どうも他者のために何かをする人物には見えないらしい。

そんな中でも印象に残っているのが2つ、
個人主義に見えて貢献する気持ちが強い
・淡々に見えて熱々


正確に言うのであれば貢献したいという性格の良さから来るものではなく、

やらないよりやる方がよいという判断をしている
相手に何かしたいという自己満足、エゴがある

ということなのだと思う。

2つ目について、大学で告白とは一種の権力の行使であると学んだことを思い出す。
告白、あるいは謝罪は、相手に受容や赦しを要請するものであるということ。
相手に好意を伝えること、自分が相手に何かしたいという欲を見せること、また何かをすることは、相手に許容されるだろう、相手もそれを受け止めるだけの同じ重さの想いを抱いているだろうという甘えを含んでいる。
甘えという響きが悪ければ信頼という言葉に置き換えてもよいのだけど、どちらにせよある程度の関係が構築されきっていることを前提として成立するものである、と感じている。

そうした上で起こされる行動は、きっと熱量や大きなエネルギーを伴うのだと思う。そんな前提を考えなくても、人の気持ちが一番強いなんてことはわかっている。
仮に自分も許容されるとして、その行動に果たしてどれだけ熱量を乗せられるだろうか。

そもそも本当に強い気持ちがあるかも曖昧な中で、それでも人に好意を抱くことはあって、それこそ家族や友人はそれに該当するけれど、その気持ちに見合う態度を持ち合わせているだろうか。

いつだったか、人間や集団に直接関わることは嫌いだけど人間のことは好きだという研究者の話を読んだことがある。
おそらくそれに近しいものはあって、好きだという気持ちに相応しい態度が見当たらないのだ。

余白が美になり奥行きになり深みを生み出すのは理解していて、それでも余白のつくり方がわからず直線で進んで伝えて、結果として振り落とされているものが道に多々落ちている感覚がある。必要最低限かと言われたら肯定できないニュアンスのもの。


きっと私的、あるいは詩的な面のものなのだろうけど、それを大事に取り上げることを今まであまりしてこず、頭の動き方が合理的な方向にシステム化されているように思う。
そこから脱却するために、今は手続きを経て自分のムードをそちらに持っていっているけど、本当は合理的な自分とその前の段階である自分の境界はない方がよいのだろう。

言葉のレベルで言うと、日常的に使用している語彙と詩的言語的な語彙が同じスペースに入っている、もしくは交互に転用できることが自分にとって望ましいのだろう。加筆修正、という言葉でイメージが喚起され広がりを生むかという問題。

ということで、今年の抱負は 日常でもゾーンに入れるようにする です。