宝物ができにくいという話をします

私はいつもひとつ上から今を、そして今からひとつ上を振り返ったときに気づく。

たとえばチョコ。
私はチロルチョコを割と美味しく食べられるリーズナブルな舌なのだけど、サロンデュショコラで手に入れたチョコのあとに食べるとさすがに美味しさはなくなってゆく。

また別の話として。
大学時代に学芸員資格を取ったのだけど、そのための講義で先生が「皆さんにも大切にしている宝物はあると思いますが…」と言っていた。
周りの学生は頷いていたけど、私には特になかった。
ここまでハッキリと自分と他人全員との差異を感じたのは初めてで驚いたのと同時に、(他人と違うことにではなく)宝物がないという自分に、本当に心底ショックを受けたのだけど、これも上と同じことなのだろう。


音にも絶対音感相対音感があるけれど、全体的な私の性質を当てはめるならきっと後者なのだと思う。
絶対的なものが内在しないから、外に基準を求めるしかないのだ。

ただ、音階などの基準が決まっているものを除いて、そこではその基準をどう定めるかという問題が発生する。
例えば他者による絶対的なモデルに従うとき、それは隷属の可能性を孕んでしまう。
私は若干ひねくれている部分があるので、そこに自分をすべて委ねる楽さはあるだろうけど、果たしてそれで本当にいいのか、いやよくないだろう…と考えてしまう。

そうなったとき、基準はやはり外部にあるものから自分が選択する/内在する不確かなものになり、あるいは基準不在のまま、曖昧にぼかされていく。
そうした基準のもとで手元に来たものは、絶対に大事か、と聞かれたら自信をもってそうとは言い切れなくなる。

ただそんな自分の選択や大事にしているものに自信がないわけではなく、むしろ何となく大事なのは間違いないのである。

そう考えると、「何となく」に自信をもって浮遊し続ける、揺蕩い続けることがこの生き方の極致となるのだろうか。


アイデンティティのことを考えると、基準が自分で見えずそのために自己は広がりを見せてゆく。
自分で認識するには、その総体を捉えるしか方法がなさそうだ。