特になにも話してません

自分語りしかしないからブログのタイトルを「自分語りしかしません」とかにしようかと思い立って、個人的なブログなんてそんなもんだよなとやめた。

そろそろ様々なことを認めないといけなくなってきた、と感じる。
例えば世間的には大人であることや、家庭環境に恵まれたこと、自分が恋愛対象とされる可能性があること。
反対に大人になっていないこと、現状からいずれ変化が訪れること、そのときに代替となる/新たな軸となるものを見つけていないこと。

幼少期を振り返ることも多くなった。
小学生の途中まで住んでいた横須賀の、パラソルチョコ、駅前の照り返しが激しい公園、お使いに出かけた時の入道雲、ハンバーグを作る母、光化学スモッグとプールに外国の甘い飴、夕焼けと下の公園のさざめき。

特に夕焼けと公園を思い返すと、自分はそこに存在しつつも実在はしていなかった感覚がある。
それはフレームを通して別世界として見ていたのではなく、むしろ風や空気に混ざっていたような。
こう文章に変換することで対象化してしまっているのだけれど、再認識の仕方がこれなので、体験はそのまま身体に残しつつ別枠として。

さて、以前アイデンティティは人間関係の間に形成されるものであり、それを理解してはいつつも反論したい気持ちがあると書いた。
それは今も継続している…というか、人間関係によって形成されるアイデンティティ以外でその人をその人たらしめているものがないのであれば、人を性質ごとに区分するしかなくなってしまうのではないかと感じている。
自分や他者の具体性を薄く捉えていて、この人でないと駄目…というところまでの執着心を持てずにいることもその近くに立っている。

記事には、時間経過が関係性に影響しているのならば、そしてそれを運命的と考える人がいるならば、そこに自分が加わることはないとも記載した。
それは、人を大まかな性質で分類して、同分類の異なる2人が同じタイミングで同じように自分と出会った場合、同じような関係に落ち着く可能性が高いからである。
並行世界を仮定し同じ重量で認識している自分を確認する。量子力学シュレディンガーの猫

哲学の講義で哲学者は社会に生きなければならないと教わったが、それに沿って考えるなら、自分は社会に、今ここに生きていないのであろう。

このブログをぼそぼそ続けている理由の1つとして、自分固有の要素が記事をいくつか並べることで表出されるのではないかというものがあるのだけど、それを発見するには自分で書いた文章だからわかりにくいという問題にあたっている。
これを読んでいる方がいたらそこのあたりのフィードバックをお願いしたい。お礼にその人の好きなところ言います。

いつかのタイミングで、一年間の目標を「できれば人に依存する」にしたことがあった。
当時も今も、依存したいとは思っていないけど、執着はしてみたいと思う。唯一を見つけるなんて理想すぎるとわかってはいつつも。