縦と横の話をします

時間という横軸の話について。
海が好きなのは、いつか元に戻ることがわかっているからかもしれない。と、鳴門海峡の渦潮を見て思う。

どうにも自分が平坦、あるいは平淡なので、好きというよりは肌に合うという方が正確なのかもしれないけれども。
いずれ過ぎ去るひとつの事象として捉えられるから、有限であるからこそ、却って今という瞬間を眺めることができる。

友達がよく時は過ぎるよと言っていたことがあったけど、これも未来を俯瞰で捉えてそれを今に持ってくるという、時間に主体的に関与していく姿勢だったのだと感じる。


空間という縦軸の話について。
演劇について、役者が死を演じても役者自身は死なないという保障があるから観客は安心して観られる、経験のない死というものを実際の死と違う描き方で表出できるという言葉。

物理的にも空間的にも、距離があればあるほど自分とは異なる存在となると感じる。
基準点となる自分に重きを置いている場合はそれが寂寥、儚さ、やるせなさ、反転して理想や憧憬に、自分に重きを置いていない場合・向こうに重きを置いている場合は神聖さに。

だからカテコが好きなのだろうか。役と役者が別人であるということ、また役者が役に、空間的に上の存在に昇華されようとしていたことを確認し、同時に世界を保存する行為ができるから。
演劇に限らず人が演じるということに興味があるのは、人が形而上に向かう姿に美しさを感じているからなのか。

それは舞台に限らず何かしらの媒体を通している、かつ本人が演者であるという自覚がある場合において共通である。
少しずれると、美術品が美術品として制作されているか、観る側・観られる側の双方に認識があるか。デュシャン、実物のアウラ
これはアイドルとしての三宅健についてのレポートでも書いた多重構造の論と重複する部分なのだけど、構造をつくろうとする行為、あるいは意図はなくとも結果的につくられているものの上昇志向。


冒頭に戻り、では自分は平坦な、元に戻った世界を自分の日常として生きているのか?と考えると、そうではないような気がしている。むしろ形而上にいる方が本質的というか。
基準点における自己の不在というのがひとつテーマとなりそうな。

それに関するものとして、人間関係において、言葉を尽くして条件を挙げて、それでも表現できない要素、要素化できないことこそがその人でなければならない理由である、という話について。

表現できない部分にはその人と過ごした時間経過があると考えられるけど、それはたまたま傍にいたのがその人であったという偶然性に依っている。
それを運命と位置づけることもできるのだけど、どうも自分は自分の人生を主観的に捉えていない節があるようで、その偶然性に積極的に意味を求められないのである。
アイデンティティは他者との関係によって構築される、という説に、反論したい気持ちがありつつもできないままでいる。

人生一度きり、の人生にカウントしていないというか、自分が自分のために存在している気分がないというか。個人としての自分への認識が薄いというか。客観的には評価を下したりしているのだけれども、なにかを媒介するツールであるような。

前回のブログを読んだ友達からの「でも感受性はある」という指摘はその通りで、ただその感受性を前面に押し出したい気持ちはなく。
今年の抱負を書いた記事に繋がるけれど、感性に触れたものを即分析する、言の葉の庭でミステリーのような楽しみ方をすることになる自分。
アウトプットの仕方が言語による分析になっているのだろうな、と思う。
そこにある事実は事実であり、それによってどう喚起されたかは別枠の話であるという区分け。

ある程度題材があって物事を考えるのだけど、どうしても結局自分の思考に対する話となるのは、きっと自分にとっての本質がここだからなのだろう。
自分の頭を整理して残すために書いてもいるから、飛び飛びながらも順序だってしまうのか。
発散と収束。発散部分が不足していて、これはインプットの蓄積量が発散に至っていないということなのか、細々と都度収束させているからなのか。発散しっぱなしに違和感を覚えてしまうのか。