クリスマスと瓶の話をします

メリークリスマス。
街中が浮足立っている雰囲気が好きで、それにかこつけてお高めのチキンやケーキを買っちゃったりする。
これは現実なのかわからないのだけれど、幼い頃に家族で飛行機の模型や木製の列車のおもちゃやお菓子が売っているお店に行った記憶がある。
店内のライトがオレンジ色で小さなツリーもあって、自分のクリスマスの原風景の一部はそこにあるのだと思っている。暖かさと煌めき。

ちなみに我が家の初代ツリーは白くてオーナメントが青を基調としているもので、青く透けるオーナメントが飴みたいでとても気に入っていた。
途中からツリーを飾るのは私の担当になったので、たぶん私が実家を出てからツリーは押入れから動いていない。

こちらはきっと現実なのだけど、同じく幼い頃、父親を迎えるために品川のオフィス棟に向かったことがあるのも覚えている。
子供にとってはオフィスなんて初めて入るところで、スーツを着た大人たちとすれ違う度に自分も成長している気分になっていた。
その後デパ地下でギモーヴを買ってもらって、小さくて色とりどりのお菓子に心躍らせたことを鮮やかに思い出す。

社会人になって子供の頃に比べたら遥かに金銭的に豊かになり、今の自分なら好きなだけギモーヴを買うことができるけど、きっと幼い頃よりもそれに価値を感じることはできなくなっている。
それは大人になった、年齢に見合う価値観になったということなのかもしれないけど、いつまでもギモーヴに心を躍らせたいし、シャボン玉で遊びたいし、サイゼで間違い探しをしたいなと思う。
小さな世界での楽しみを失わないためにはどうすればいいのだろうか。頻度を下げるとかかな。

高橋優のそれはもう好きな歌詞に「瓶に詰め込んでしまいたい」というものがあって、文脈は違うけど、この部分は有為転変のなかにあって一瞬を永遠にしたいという気分そのままの、我が意を得たりという歌詞だなと思う。

アイドルについて。
アイドルなんて瓶に詰め込んでしまいたいものの代表格で、12ヶ月の三宅さんやノスタルジアの丸山さんは自分の頭に焼き付いている。
直近で好きなアイドルが卒業してグループの体制も変わって、自分がアイドルグループで好きだったのは同世代感だったのかなと思う。
大所帯になるとそれが同期になるのだろうけど、先輩後輩になった瞬間に社会を感じてしまう。
選ぶということは選ばないことでもある、という言葉はその通りで、集団を作ることで、こちらからの目線ではそこに所属する人としない人の間に線が引かれてしまうのだ。それが元から形式化されていれば伝統として受け止められるのだろうけど。

瓶と言うと、なにかの現代文の過去問で「日記は瓶に入ったジャムのようなものだ」という文章を読んだことも思い出す。
一度過去に書いた文章を現在の自分が読んで加筆修正を加えて変化してゆくもの。
私は自分のTwitterを見返すことがあるのだけど、Twitterも日記もこのブログもそうなるのだろうか。