静物が好きだという話をします

あっ今静物になれそう、と思ったことがある。

一人暮らしをしている。
休日風が吹くと、あぁこの部屋には自分ひとりしかいないのだ、と思わされる。
動かない自分、動かない家具、入り込む風、揺らされるカーテン、室内の空気を連れる風。
髪や服がカーテンと同じタイミングで揺れる時、肌が風に撫でられる時、「あっ今静物になれそう」のタイミングが現れる。
中原中也に感じる自己俯瞰的な目線、自分がモノである、自分の身体が殻であるということを自覚する瞬間。

静物」という響きが中学生の頃から好きだ。
それ以上でも以下でもない潔さ、モノがモノとして凛として在ることの美しさ。
それと同時に、絵画の中で人間がある種特権的な位置にあることが不思議だった。

人間と静物の違いとは。
動くことだろうか、生きていることだろうか、それとも自分がそれに所属していることだろうか。心があることだろうか。


人間それぞれの中身に重さがあったとして。
私はきっととても軽く、あるいは滑りやすく、だからこそ自分から漏れて静物になれそうな感覚になるのだと思う。
空気の軽さではなく、粘度の高い水のような、摩擦が少ないが故の軽さと滑りやすさ。

きっと心があれば、重心をそこに下ろすものがあれば滑らずに済むんだろうと思いつつ、そんなものは見つからず、それでも日々は過ぎてゆき、でも身体はそこにあるからなんとなくそこに戻って。


物事は通過して通過して、滞留せずに流れて、私も流れて、あとに何が残るのだろうかとふと思う。
それを悲しいと感じるわけでもなく、あくまでもフラットに。
自分はインプットしたものを内面化すること、自身を変容させることに欠けているなとちょこちょこ思っているのだけど、それも私自身の内部に理由があるのだろうなぁ。