頭と心の奥のほうの話をします

心を掴まれた経験がある。

歌を聴いたとき、自宅で踊る姿を観たとき、カテコでの観客の拍手に圧倒的な熱量を感じたとき、そういう時私はたまらなくなって散歩をする。衝動を発散したくなるのか、自分でもできる何かを外の世界に探しに行っているのかわからないけど。

 

踊りを目にした夜、たまらなくなって外に出て、ひんやりとした空気を縫って本屋さんで中原中也の詩集を買った日を覚えている。

普段はただの風景なのにその夜だけは街灯や本屋さんの光が冴えて見えて、風景は変わらずそこにあるのに自分の気分次第で勝手なものだと思いながらふわふわ歩いていた。

結局その時買った詩集は読破されることなく今も本棚に仕舞われているけど、きっとこれから捨てることはないのだろうと思う、私の発芽として。

 

あまり多くの本を読んでいるわけでもないけど、おそらく自分はシナリオや構成よりは文章ひとつが印象に残りやすい質なのだろうと感じる。中原中也武者小路実篤も歌詞も。

 

言葉でいうと「~なら」「~だったなら」だとか、過ぎ去りし日を思い返したり思い浮かべたりするニュアンスだとかが好きで、実際に自分が思い返されてもスンッてなることだってあるくせにね、と他人事のように思う。

思い出したり過去をつい仮定してしまったりするのはその出来事からある程度の距離があるからであって、でも後ろ髪を引かれて次のスタートラインに立つのを躊躇しているようなタイミングに惹かれている。モラトリアム。

 

これはBUMPのrayを聴いた時にXにも書いたことがあるけど、その人の面影をリプレイしてリプレイして、そうした先にあるのはきっとどこかいくつかの要素が抜けた/足されたその人で、その人は今違う場所で違う顔を見せて存在しているかもしれないけど、彫像されたその人を大事に抱えていく、というのが、思い返すということの実際であり、美しいと感じる部分なのかも…と思っている。

 

この間A3!のイベストを読んで泣きながら、きっと私がピエロやサーカスに「~なら」「だったなら」のような距離と郷愁を覚えるのは 幼い頃に読んだ「怪盗クイーン」のせいだと気づいた。ペールピンクと紫、砂塵。

どうしても嫌に形や色を持った現実を生きて失っていく中で、それは今もなお非日常として靄の向こうで輝きを帯びて、非日常の原風景であり続けてくれている。