時間とテンポの話をします

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「時間は全ての人に平等に与えられる」という誰かの話を覚えている。
確か高校3年、受験生の頃で、その話はだから毎日無駄にせず勉強しましょう、という着地だった。
当時は軽く聞き流していたけど、今になってそれはもう少し踏み込めるのではないか、と感じるようになった。

それは、テンポの問題である。
私は人にはそれぞれテンポがあり、話すスピードや動作に表れると思っている。
時間が(まず平等なわけではないけれども)平等だとしても、そのテンポが速い人は短く、遅い人は長く感じることになる。

ただし、そのテンポは必ずしも絶対的なものではなく、音楽のBPM、他者の身体のテンポなど、様々な外部要因によって揺らぎが生じる。

少し広く見て、街や場所にはそこ特有のテンポがある、と思う。
例えば渋谷のスクランブル交差点とか横浜駅の構内とか、反対に平日の公園とか。

何をもってそのテンポが決められるのかというと、それは人に先立つものであるように感じる。人が生活する中で生まれた、人が生活するのに適したテンポ。
ただ、すべての人に適しているかというと勿論そうではなく、そこから漏れる人も存在していて、そんな人は決められた「普通の」テンポに自分を合わせるという逆説的な事象が起こる。

こんなことを考えるようになったのは、如月小春の舞台、ダムタイプ展、ソール・ライター展のタイミングが近かったからなのだと思う。

如月小春からは言わずもがな消費や欲望を、また「普通の」テンポに合わせる人を、ダムタイプ展からはデジタルと身体によるズレを感じた。

それに続くソール展で感じたのは、社会のテンポからの逸脱である。
ソールの生きた社会や街にもテンポがあり、それは写真の中でも進んでいる。しかし、ソール自身はそのテンポから離れ、傍観し、そして自身のテンポから街のテンポの一部を切り取っている。
写真を撮るために傍観者になったのか、傍観者だからそういった写真を撮れたのかはわからないけれど、そこにあるものを捉えるためには一度当事者から外れる必要はあるよなぁ、と思う。

私は割と自分のテンポがない、あるいは変動しやすい人間だと思っていて、だから自分のテンポをしっかり持つ人に会うとどうしたら保てるのだろうかと不思議に感じる。
自分自身に軸やこだわりがあるからなのか、世界を意識していないからなのか、もしくは世界を意識しきっているからなのか。

世界には世界のテンポがあり、そこに自分を合わせるのである…という話を聞き齧ったこともあるし、世界と人間のどちらのテンポが先行しているのかわからないけど。
考えなしに直感で言うと、人間のテンポ先行の方が楽しそうだななんて思ってしまう。いやでもぽっと出の人間にはやっぱり難しいのか…。

情緒的な文章を書けるようになりたいのだけど、その前に大きな感情の揺れがないからなぁ…と少し虚しい気持ちになっている。
次回こそ、情緒的なテーマで、情緒的な文章で。